明日は労働だよ

しんどいな〜何がしんどいって、自分の好きに動けないのがしんどいのである。前日(今日)は明日の労働に向けて早く休み、お菓子を控え、体調を整えないといけないけど、まだ書いていない日記があるし、もう少しお茶とお茶菓子をしていたいし、体調のことなんて考えずにやりたいようにやりたい。できない。そうしないと、明日死ぬから。心が死ぬか、肉体が死ぬか。心の安定を求めて夜更かししたりすれば、睡眠や栄養が足りず体調が悪くなって(物理)、心も駄目になって、鬱々とすることになる。肉体を整えるために心の安定をおいておき、数値的な栄養摂取やらなんやらをしていれば、心が死に、鬱々とすることになる。どっちも駄目なんである。死ぬ死ぬと書いたが、ここで私の言う「死ぬ」とは、鬱々とすること、ずっと体調が低空飛行することを示す。朝、学校が嫌だった時の緊張があって、それは「行きたくない、起きたくない、無理、ないほうがまし、ほんとに無理」と思うこと、それらを振り切って起き上がって(ブッチする気力がない)、機械的に用意をし、機械的に栄養摂取の食事を口に運び、暖炉で暖まって幸福を感じ、この幸福があと5分で終わる恐怖の中にいて、でもそれも振り切って玄関のドアを開けると外がとても明るくて、本当にそれが嫌で、しゃがみ込む。自分が見れちゃうのが嫌。闇夜に紛れていれば、まだ隠れられていて、安心する。つらいつらいと思いながら何かをすることはない。それが私の生を持続させるのに必要なことだとしても。その結果、死にいたるならそれで良いのである。私は私がつらいことはできない。できないとわかった。

 

今日は書こう書こうと思っていた日記を書こうと思っていたのに、何を書こうとしたか忘れた。記憶しておこうとしたことは覚えている。忘れたよ。ごめん。休みが嬉しかった。姉が来て、父の退職祝いをして、姉の家に行って、わちゃわちゃして。なきそう。いつまでもここにいられないこと、終わりが見えていること、明日の朝、明後日の朝、もしくはどこかの朝、私は辛くなること。それらが辛い。わかっている。

 

ハンカチとライトと延長コードを詰める。

 

本当に何を書こうと思ったんだっけ。大切なことだったのに。

エシカルの話、私がもし多く持っているなら、分けようと思ったこと

・運で現在地に至っているから、別に私は偉くないし、もしかしたらもっとつらい目に遭っていたかも知れないと思う。だとしたら、つらい目に今あっている人はもしかしたらの私であって、無視しちゃいけない

→箇条書きを文章にしていくよ2021/3/7。分けようと思ったというのは、私が例えば一万円持っていたとして、でもそのうちの1割がなくなっても、別に死なない。飢え死にも凍え死にもしない。偉大なる環境様のおかげである(ありがとう両親)。それで、だとしたら、もしその1割がなくて困っているひとがいるなら、分ければいいと思ったのだ。だって、死なないから。運で~というのは、私は環境のおかげで多く持っているところにいるけど、それは運によって至っているに過ぎないなということ。もしかしたら、私も運によっては違うところに至っていただろう。今つらいところに立っている人は別にその人が悪いのではなくて、たまたま至ってしまっただけであり、それは私だったかもしれない。だとしたら、持っている私が持っていない誰かに分けたっていいじゃないか、無視してはいけないのだ、という気付きを得たという話。そういいながら、この前無視したよね。

・今の労働は、私は観察の対象として見ているけど、中にいる人(上)が中にいる人(下)を見下した発言をしていて悲しくなった。

→なんか嫌な感じ。負の連鎖。よくないと思う。

・普通にうまい、が嬉しかった。残業は文化祭の準備のようだった

→文化祭現象結構あるね…?(2回目)これが”やりがい”というやつ…?いやでもやめるけどね…?やりがいを私は求めないよ…?お金と環境と条件と知的好奇心が満たされることが大事。

ワーキングプア製造機

→組織キライ話

・また吐いた

→労働つらい。つらいことが体調に現れるのは都合がいいので、労働がつらいために履いているのだと言い張るが、実際はそれが1:姿勢:4:食べ合わせ1:疲れ4だと思う。食べ合わせはあまりよくなくて、胃を圧迫する格好をすることが大きくあり、疲れ、最後に気持ちのところね。頻度は高い。

・被写体になる話、写真を撮られるときの話

→対象物として扱われているという不平等さを感じ取って嫌なんだと思う。私を記録としてあなたが持ち続けることも、私の許可なしにやるというその、優越さの見える姿勢がむかつく。対象として扱われる。カメラを向けられる/向けるというのは、そういうことだ。

・何かを生み出さなきゃと思った話

→労働をするようになって(今更気付いたが、こんなに多くの時間を労働に使ったことは初めてである。慣れるわけがないのだ、やったことがないのだから)、多くの時間を自分のやりたくもないことに使っていると、何か優良なことをせねばならぬと思う気持ちが強くなった。優良なものとは、私にとっての優良なこと。文章を書く、何かを強く感じる。疲れや嫌さが地まで落ちていると、それができる。鬱々としているからそういったときのほうが私は荒ぶっていて、書いたり感じたりが容易にできる。國分巧一朗先生が暇と退屈~で言っていたけど(いまだに読んでいるよ)、暇だと不幸を望んでしまうし、現在の流行りは何かを生み出さねばならぬという生産性主義。私はこれらにちゃんと該当していた。鬱々として物を感じたいと思い、それらを言語化せねばならぬと思うのだ。やだああ(泣)。吐きそう。今の労働、何がつらいんだろう。組織が嫌い嫌い嫌いとは言っているけど、実はさほど嫌いではないのだ、嫌いなんだけど(どっちだよ)。そこまでのパワーはない。純粋に、時間が食われること、私のやりたいことができないことが嫌なんだろう。私はロングスリーパーだから、8時間労働して、移動で2時間はかかって、9時間は寝たくて、お風呂入ったりご飯食べたりで、そうするとあまり時間がなくなっちゃう。生きるために生きているようになる。容量が小さい。自分の容量の小ささがつらい。けど、それはどうにかできることじゃない。そして私は、生きるために生きている状態が嫌なのだ。吐きそう。私は別に生きていたくもないのに。もっと偉大な環境であればと思うが、現在の私を否定することは、私の軌跡を否定することになり、しかし私という存在は今のこの私という在り方でしか在り得なかったので、なんかもう仕方ないよね…。気持ち悪い。今日はずっと気持ちが悪い。明日は、お気に入りのところじゃなくなってしまって、泣きそうだ。遊牧民のような暮らし。