農奴を観察しに来た貴族の図

農奴を観察しに来た貴族の図(2021年ばーん)をリアルで見た。その図になったのは、農奴の側の、そのうちの一人の表情に、みじめさを見たからだ。それがなければ、農奴農奴とはならず、単に、綺麗な人間が作りかけの城にやって来たというだけの事実だった。そんなに惨めに思うことだろうか。だって事実じゃん。惨めさ。とてもきらきらした彼女たちだった。プラダの鞄をもって、さらさらした髪、汚せないくらいに綺麗な洋服。泥ひとつついていない靴。作業をしない上の人は、手が綺麗だったな。彼女らは、その場にはとても似合わない。あの惨めさはなんだったのだろう。でも、私はもう来ない。もう見ない。見ることはできない。これも事実だ。出た瞬間にガッツポーズをして、声にならない声をあげた。もう二度と来ない、と強く言った。

 

気が楽になったのは、欲しいものが手に入りそうになったからか。もしくは、嘘をやめたからか。どっちだろう。他者に私の行く先を言って、それを改めて認識したからだろう。あの気の楽になりようはすごかった。遠回しのNOなら、NOと言ってほしい。間が読めない。俺は冗談も社交辞令もわからないんだ。それにしても、遊ぶと言ったって、遊ぶってなによ…。あのソーシャルが怖い。

 

小さくても、やらなきゃいけないことが集積されると、じりじりと心身を圧迫するようだと気付いた。ちゃんとしなきゃちゃんとやらなきゃきちんとしなきゃ丁寧に接っさなきゃ荷物を用意しなきゃ朝は何時に起きなきゃ夜は何時に寝なきゃえいようはこれくらいとらなきゃetcetc、それらがぶわっとなくなって、心が軽くなった。プレッシャーがなくなった。負荷がなくなった。労働はしばらくいいです。何もしません。俺は休むよ。ちょっとのんびりします。別に金持ちでもないです。将来のこと、私の生命の持続より、頑張りたくないを取っただけです。

あえてかけていた負荷。頑張ったね。かけた負荷の話をしよう。私は自分のことを働けない人だと思っていて、でも将来的には働かないと私の生を持続できないから、私が考える、大変な仕事、私が偏見を持っていた仕事をすることが出来れば、その「私は働けない」という考えを上書きして変更できるのではないかと思った。そういう理由で選んだ。ある種の実験である。確かに大丈夫だったから、工夫して、あとは入口も工夫すれば、たぶん働いて生きていけるんだろうな。私の生を回すことができる。だから生きると決めたら、そうやって小さく小さく回して、生きていくんだろう。

 

労働の条件、新しい方法を探す。今回の結果。

よかった点

・身体を動かせるのはよい、痩せたし、ご飯を遠慮なく食べられる

・作業を自分の裁量で出来るのはよい

・残業がないのはよい

・服装にある程度の縛りがほしかったからよかった

・いろいろなところに行けるのは楽しい

・物が出来上がっていく過程を見られるのは面白い

・適度に一人で適度にお仲間がいる(でもこれが構造から考えるとだいぶ謎だった)

・ディズニーランドにおける客同士の距離感があった(でもこれはわたしが若くて以下略だからか)

気に入らなかった点

・荷物は軽い方がよい、もうちょっと身軽になりたい

・日焼けがつらい

・手荒れ肌荒れはつらい

・場所は近いほうがよい

まとめられる?

 

電話をして、十分な下心を認識しつつ、彼の人がそう言えば、私はきっと「もういいや」と思うだろうと思った。気が晴れた。淡々としており、綺麗な人。不思議な口調。

 

わたしたち(人間)は、もっと堂々とするべきだ。胸を張って、姿勢を正すべきだ。