ぐるぐると目が回る

忙しくて目が回っている。

以下、忙しい内容

・予習復習

・予習復習が割と必要な授業、かなり強めに必要なのが3つ、普通に必要なのが4、そこまでが3、未知数が2、(+後期のみの授業2)という感じ

・かなり強めがかなり強い

・しかも私はこれに1つ追加しようとしていた

・ギリギリやれなくもないと思うけど、絶対的に何かが犠牲になる

・本を読む時間とか(もう既に押されまくっている)

・自分でドイツ語を勉強する時間とか(もう既に)

・日記を書く時間とか(もう)

 

・忙しいよう、、、

・容量が悪いのかな、、、

 

・2週間くらい前に同級生とレヴィナスを読む会をしたときに、彼が実存のことを考えすぎていると気が狂ってくるみたいなことを言っていて、私はふうんなんて薄い反応をしたのだけど、彼はそれを意外に思ったようで(多分)、でもだってそこまで考えてないんだもの、、、。大学に入ってから結構色々なことが大丈夫になってきて、私は、このまま生きて老いて(貧しく)死んでいくことを取れるようになる気がする、となんとなく思っている。だから私は、入学が許可されたときに「許された」と強く感じたことを早く因数分解しないといけないのだけど、いかんせんやってないですね。

やるか。

 

許されたと思った理由

・まず私には、人間は(私は)存在しないほうがよいという強固な前提があり

・ではその場合、この私の生はどう説明されるのか

・この先どうやって生きていくのが最適解か

・みんなどうやってこの生を説明しようとしたのか

・そういったことを知ってから、人生の進退を決めようと思っていて

・でもうだうだしており、どっちつかずの状態だったのだけど

・合格をしたことによってそれをやって(探って)いいよと、機会を、時間や環境を与えてもらった

以上までが出来事で、そのときに私が感じたのは、

・与えてもらったこと自体に対する「救われ」と、

・ああこれで4年は、差し当たり自己矛盾に苦しむことも、誰かに何かを言われることないのだと安堵した、という意味での「救われ」であった

・生きていることを許された

・でもところで、許されたのは、「生きていること」なのか?

・自己矛盾を抱えていること?

・私は自己矛盾を抱えた私(という存在/状態)が許せないので、誰かに許してもらいたかったんだなあ、、という説明はできますよね

 

 

あと反応が薄かったもう一つの理由は、最近はわりと様々なことに対し、やってくしかないと思うようになったからです。なんか、嫌なことも、嫌だとわかるにはとりあえずやってみるしかなくって、それもそこそこやっていくしかないので、そういったある種の諦めを持つようになったからです。それで、「やっぱり嫌だったな」と思うなら、それはそのときにそう思うのであって、今進退を判断するのは時期尚早なのではないかという考えが生じるようになった。が、なんかもっと上手く書けないんですかね?これをやりたいの私は、別にショの研究がしたいわけではないのよ。

 

目的を見失っている

 

生の哲学ベルクソン