あーあ

何もままならないよう

 

比較思想 提出
ギリシャ語の宿題
すえぴ訳
テスト勉強
倫理学史 提出

 

多くない、、?

 

もう何もかも嫌だな〜〜

別に生きるために生きているわけではないから、あまりそうはなりたくはないのだけど、だから行けるところまでは行きたいのだけど、別に、ひもじい思いをしたり、お金の心配をしながら生活したいわけでは決してないし、手段が目的になっちゃうのはやだし、妙なプレッシャーを覚えるのは嫌だし、でもそれが手に入るくらい勉強をきちんとしていけるなら、私は本当に嬉しいのだろうな

 

でもそれにかまけてもいたくないのですよ。

 

生活がつらい、早く痩せ終わりたい

体調

ここ最近体調が悪くて、しんどい日々だったのだけど、原因は勉強をしない日が続いたからだろうなというのが一つ、考えとして思い浮かびます。あとは暑さとか。というのは、別に私は勉強ホリックなのではなく、八丈のときも同様の事態が起きていたけど(というかそれを発端として起きるようになってきたように思われるけれども)、勉強はわりと「やらねばならぬ」こととしてやっているので、一度やらなくなってしまうとその楽さに溺れてしまうというか、ぬるさに甘えてしまうことを覚えて、戻ってこれなくなるんだなあ。なので、私のフランス語の先生は、ときどきoublierをしたほうがいいですよとおっしゃっておられましたが、私はこれをしないほうがいいし、ギリギリのところでずっと回していくほうがよい。ここまで体調を崩すとは思わなかった。こう、タスクで縛って諸々やっていたし、そうして回していたので、一個うまくいかないとなし崩れになりますね。これだから完璧主義は嫌なんだ。

でも今回は、本当にわりと体調が優れなくて、ずっとだるかった。計画には「怠くなって何も手につかなくなる」みたいなことはないわけで、本当になし崩しですね。来週からやっていけるよう、今日から立て直します。

 

それはそれとして、体調を崩してぐだぐだしていたおかげで、ずっと読みたいと思っていた本をようやく読めたのはかなりよかったです。うーん、現代哲学、英語をやらなきゃいけないのはかなり嫌なんだけど、まあ英語もやればきっと楽しい、、楽しくはないか、、うん、、そうね、、、でも読みたい本がかなり英語なので、わりと必要に迫られていくのでは?

本の感想

組み合わせ方の違いなんだろうか。生まれてこないほうがよかった

でも「他者も生まれてこないほうがよい」は、わりとmitleidenに基づくことなので、越権であるかもはしれないけど、それはそうだと思う。

12時

最近夜更かしをすることが多いのだけど、それは最近対外的に夜型の生活をする日があるようになってしまったからで、別に夜が好きなわけではないです。超朝方が好きだなあ、、、。

 

私の大好きな同級生とたまたま放課後に鉢合って、お寿司を食べに行ったり、そのお寿司がとてもおいしかったり、私の大好きな先生がお酒をくれたり(親戚にもらったのだけど、僕はこの類のお酒を飲まないからと言って、くれたのだ)、それがとてもおいしかったり、苦戦していたギリシア語が少し楽しくなってきたり、友達と電話したり、お金が稼げるようになったり(まあこれはそこまでよいわけではないのだけど)、素敵な人(頑張っててちゃんとしてる人とか、かっこよくて足が長くて優しそうな人)と喋ったりして、すごくいい週ですね。

 

そんなことを書いていると私は機嫌がよいかのように感じられるかもしれませんが、別に機嫌がいいというか、私が今日日記を書こうと思ったのは、むしろイラっとしたことがあったからで、その話を書き残しておくために今カタカタと打っているわけです。

 

うまく書けないので具体的に書いていこう

例えば私は政治にあまり関心がないのだけど、そうすることで今の政権が好き勝手やれる隙をどんどん与えていきますよね。自分自身や、後世の人々に大変な世の中を与えることになるでしょう。私はまた、ヴィーガンのものにあまり興味がなく、肉を普通に食べますが、そうすることで環境負荷に加担していきます。ウーバーイーツを使いはしないけど、食べログを使うことで、その悪魔的なプラットフォームを肯定し、それによって苦しむ人々を苦しませる一因になります。安いものを購入することによって、その安さのために低賃金で働かされる人に対し、そうした労働環境の醜悪さを認め、推し進めています。アルバイトをすることで、しかもそれは最低賃金に近いものですが、非正規の労働を認め、こうした制度を肯定していくことになります。もしかしたらその制度のせいで苦しんでいる人がいるかもしれませんが、私は自分の短期的な利益を優先させます。私はこうして、世界の悪さを肯定し、それに加担していきます。残念ながら、何かしらの悪さに加担せずに何かをすることは難しく、私は誰かを常に踏みにじり、気付かずに誰かに踏みにじられ、常に悪さをしでかしているでしょう。特にサプライチェーンが発達した現代においては。

私が悲しいのは、そして耐え難く避けたいのは、私が加害者になるということであり、私が責任を負わなければならなくなる、ということです。傷つく誰かがいることが嫌なのではなく、いえもちろんそうした人や悪は少ないほうがよいのですが、私は自己保身の人なので、私にも責任が生じてしまうことが耐えがたくいやです。なので普段から、悪さをしないように気をつけ慎重にはなっているのですが、そしてだからこそ加担していることがたまらなく嫌なのですが、こうして生きているだけで悪に加担してしまう現代(「現代」が悪いんですか?)、自己の悪や傲慢さに対する嫌悪観、そうした構造に対する恨み、常にそれを自覚自認していることのつらさ、またそれに自覚的でない他者への、つまり傲慢さへの苛立ちがあります。思いあがるなよ!!!という気持ちと、その自己への特権性はなんなんだろうという疑問があります。生きている限り、残念ながら自己より大きいもの、世間とか世界とか他者とか、そうしたものですけど、そうしたものにどうしたって接続しているわけで、中立なんて立場はないのですよ。どうやったらその接続を切ることができるのか、切って、自己をそうしたことからは関係ないものとして扱うことができるのかと、不可思議に思います。そうした傲慢さへの苛立ちがあり、悲しさがあり、そうすることで悪を加速させうること、また私も悪を加速させている事実が跳ね返ってきて苦しく、諸々悲しいです。だから人間は生まれてこないほうがよかったのだ。

わたしの大好きな同級生に、大学院を考えているか聞いたところ、アカデミックな感じでやりたいわけではないし、英語はあまりできないし、進路は別に考えているものがあって、それが良さそうだと思っていると言っていて、確かにそうなのかもしれない。こと、彼に関しては。在野の哲学者。彼の、本当にいいなと思うのは、取捨選択が上手なところで、上手というのは、捨てるものに対する執着がないこと。そのようにして、有限な時間を(わりと)自分の関心を満たすことに使っているのではないか。私はあれもこれも手を出して、いっぱいいっぱいになって、自分の関心をあまり満たせずにいて、ほんとうに嫌だなと思っている

ふーんって読んでね

八丈島に行ったんですけど、今それと現実との乖離に苦しんでいる真っ只中で、といのは、そもそも八丈島に行ったのは、姉がそういう、島とか自然とか海とか山とかダイビングとかが好きで、よく八丈島やそれ以外のところに行っているのだけど、今回のGWも行くとのこと、「あなたも行く?」と気軽に聞かれて、私も気軽に「ついてく~」とかってついていったと、そういうわけです。船で行ったんだけども、最近私は船と海に対する憧れがあって、それで気軽に「行こう」と思いました。楽しかったねえ、、とても楽しかった。でも「八丈島」という土地そのものがよかったのではなく、様々な条件と環境と偶然によって作られた「この旅行」が妙に、本当に妙なほどあまりにも心地良かったものだから、その心地良さを今はもう享受できないという悲しみ、数日前まではそれがあったのにという喪失感、目の前に重なる様々なやらなければならないこととの対峙など、諸々に苦しんでいます。

その対峙には、例えば大学の勉強も入るのだけど、八丈島に行く前はそれなりに勉強を楽しんでいたのに、どうして今は苦しんでいるのか、やりたくなかったのか、と少なからずショックを受けました。私勉強したくなかったのかなあ、、、ここに至るまでに色々苦労した(してる)んですけど、、、。大学の授業の勉強ってわりと、タスク的にこなすことが多くて、それに圧されて自分の興味のある範囲の本が読めなくなったりすることは日常茶飯事であり、だからだろうなあと思っていたんですが、なんとそうではなく、「それさえもやらなくて済むならやりたくなかったから」でしたね。ギリギリまで怠惰に、ただ快楽を貪って暮らしたい、思い煩うことなく。私はそう思っていたようで、そう思っていたことを思い知らされました。だから私が大学に入りなおしたりしたのも、別にやりたくてやったというよりは、それをやらなきゃいけなかったという思いがある種強迫観念的に私の中にあったからで、それは生まれてこないほうがよかった(決して存在しない方が良かった)と思いつつ生きていることに対する嫌悪感に基づくものでしたが、そういったものがなくかつ「別に人生が大丈夫」であったのなら、勉強も大学もやらなくてもよかったんだな、私はそれでもよかったのだと気づいて、大声を上げました。なんかこう、こうした考えやその考えを保持していること、それに向かって努力(?)していることは、私を作り上げているアイデンティティ的なものでもあるんだけど、それらが別になくてもよかったというか、望ましいことではなかったかもしれないことへの気付きが、なんともまあ、クラッシュであり、悲しかったです。これが本当にそうであるのかはわからないけど、でもこのようには言いうるよな。少なくとも思い煩うことなくただただ楽しく過ごした八丈での日々はかなり心地よかったし、またその後友人が犬を飼い始めたというのを聞いて叫んだのも、それでよいと思えるならそのほうがよかったのではないかと思うに至るような感情の動きがあったからで、それらにひどくショックを受けていますね。そりゃそうだよ~やりたくないよね~。だから人間はうまれてこないほうがいいんだ、決して存在しないほうがよかったのに、、うう、、、あー――もーー-という気持ちです。

 

友達に送った手紙を書き直したものを書き直した(2022/05/29)

何かしらがままなると思っていることが間違いなのか

ということですね

 

八丈に行って、それはとてもよかったのだけど、八丈そのものがよかったというより、さまざまな条件や環境が重なってできた「今回の旅」がただただよかったんだろうなあ。その「よさ」があまりにもよかったこと、その「よさ」にはずっとはいられないこと、今はもうその「よさ」を享受していないことを、今身に染みて痛感して、悶え苦しんでいる。勉強が手につかないのだけど、だから私はそれを「タスク」的にこなしていただけで、別にやりたいわけではなかったんだなあ。目的を見失って「作業」的なことばかりやっているからそうなるのであり、目的を見失わずにやっていればこんなことには、、ならずに済んだわけではないか、、そういうわけではないのか、、、自分の、、自分の勉強をしろ、、、、。なぜ私は今こんなに悶え苦しんでいるのか、、、、。

 

・また行ったらいいじゃないですかと言われた

・そういう問題ではない

・また行くけど

・来月行くけど(予定は未定)

 

・それなら福島行けば?

 

・そういう話ではないんだ

・どういう話?

・今のこの「喪失」をつらがっているということですね

・だからあまりにもよかったので、その乖離がすごくて、それに今悶え苦しんでいるわけです。

・愚かだ、、だから私は乖離を生じさせうるような行為を私は避けていたのに、、、

・あーもー

 

今日も何もままならなかった