ふーんって読んでね

八丈島に行ったんですけど、今それと現実との乖離に苦しんでいる真っ只中で、といのは、そもそも八丈島に行ったのは、姉がそういう、島とか自然とか海とか山とかダイビングとかが好きで、よく八丈島やそれ以外のところに行っているのだけど、今回のGWも行くとのこと、「あなたも行く?」と気軽に聞かれて、私も気軽に「ついてく~」とかってついていったと、そういうわけです。船で行ったんだけども、最近私は船と海に対する憧れがあって、それで気軽に「行こう」と思いました。楽しかったねえ、、とても楽しかった。でも「八丈島」という土地そのものがよかったのではなく、様々な条件と環境と偶然によって作られた「この旅行」が妙に、本当に妙なほどあまりにも心地良かったものだから、その心地良さを今はもう享受できないという悲しみ、数日前まではそれがあったのにという喪失感、目の前に重なる様々なやらなければならないこととの対峙など、諸々に苦しんでいます。

その対峙には、例えば大学の勉強も入るのだけど、八丈島に行く前はそれなりに勉強を楽しんでいたのに、どうして今は苦しんでいるのか、やりたくなかったのか、と少なからずショックを受けました。私勉強したくなかったのかなあ、、、ここに至るまでに色々苦労した(してる)んですけど、、、。大学の授業の勉強ってわりと、タスク的にこなすことが多くて、それに圧されて自分の興味のある範囲の本が読めなくなったりすることは日常茶飯事であり、だからだろうなあと思っていたんですが、なんとそうではなく、「それさえもやらなくて済むならやりたくなかったから」でしたね。ギリギリまで怠惰に、ただ快楽を貪って暮らしたい、思い煩うことなく。私はそう思っていたようで、そう思っていたことを思い知らされました。だから私が大学に入りなおしたりしたのも、別にやりたくてやったというよりは、それをやらなきゃいけなかったという思いがある種強迫観念的に私の中にあったからで、それは生まれてこないほうがよかった(決して存在しない方が良かった)と思いつつ生きていることに対する嫌悪感に基づくものでしたが、そういったものがなくかつ「別に人生が大丈夫」であったのなら、勉強も大学もやらなくてもよかったんだな、私はそれでもよかったのだと気づいて、大声を上げました。なんかこう、こうした考えやその考えを保持していること、それに向かって努力(?)していることは、私を作り上げているアイデンティティ的なものでもあるんだけど、それらが別になくてもよかったというか、望ましいことではなかったかもしれないことへの気付きが、なんともまあ、クラッシュであり、悲しかったです。これが本当にそうであるのかはわからないけど、でもこのようには言いうるよな。少なくとも思い煩うことなくただただ楽しく過ごした八丈での日々はかなり心地よかったし、またその後友人が犬を飼い始めたというのを聞いて叫んだのも、それでよいと思えるならそのほうがよかったのではないかと思うに至るような感情の動きがあったからで、それらにひどくショックを受けていますね。そりゃそうだよ~やりたくないよね~。だから人間はうまれてこないほうがいいんだ、決して存在しないほうがよかったのに、、うう、、、あー――もーー-という気持ちです。

 

友達に送った手紙を書き直したものを書き直した(2022/05/29)