『ぺリアスとメリザンド』

あんまりよくわからなかった…これは難解なのでは…。

相変わらずU25制度のおかげで、とても良い席をとても安く買えているのですが、これが使えるのもあと少し、その先はU39か普通に買うしかなく、普通にはまあ買えないので、厳選して観にいこーっと。

 

それはそうと、最近の私のホットトピックは「よくわからないものとしての怖さ」みたいなもので、それは「魔王」の歌から始まり、聖書研究における神のよくわからない善良さみたいなところに由来しているのですが、『ぺリアスとメリザンド』も全体的によくわからなさが続いており、そこはかとなくした「怖さ」がありました。「よくわからなさ」が怖いのは、こちらが持っている倫理とか規範を元にする行為とは違う行為を取っているのをみたときに、その倫理とか規範とかが持っていないように思われ、つまり「何も通じない」ものであること、”ついうっかり”私を害しうるものというように見えるからですね。こわ。

 

さて、『ぺリアスとメリザンド』、最初にドレスを着たメリザンドが鞄を持って部屋に帰ってきて、鼻血を出すシーンから始まるのだけど、そのドレス姿と鞄が妙にあってなくて、なんだか笑ってしまった。全体として、この演出は「メリザンドの夢」を目指していたらしく、どこかに行っていたメリザンドが疲労困憊の状態で帰ってきて、眠りにつき、そして見た夢であると。そういうことらしい。

ゴローがメリザンドを「拾う」のだけど、そこから「わけのわからなさ」が始まっていて、全くもって難解であった。拾う…?なんの比喩なの…?そうしたよくわからないものを「家」の中に招きいれるのはとても怖くないかゴロー氏…?色々な方が今回の演出に対して批評を行っており、そうしたものを拝読したところ、「そうして招き入れられたメリザンドも、家父長制が蔓延る”家”の中では所詮”子を産む”機能としてしか見られておらず、そうした女性性の抑圧を描くのに成功していた」、といったことが書かれており、なるほど…(?)となった。

演出家の方は、家父長制とか女性の抑圧とかを浮き彫りにしようとしたそうで、私が最近それに関連して思うのは、男性性から規定される女性性、侮蔑と期待の二義性があって、それがすごくグロテスクだなということである。期待のほうは、主に母性を期待されているのだと思うのだけど、女性性を不足しているものとして侮蔑しつつ、自己(男性)を完全に肯定してくれるもの・無償の愛を与えてくれるものとしての「母性」なるものを期待し、自分の子供(息子)にも期待している、みたいなこと。今日授業で少しフロイトの夢の話が出たのだけど、夢を見ているとき人は完全に寝ているわけではなく、例えば幼児を持つ母親がそれが夜中に泣けばすぐに起きることがあるだろうと言われており、それは男性性から期待される母性の自己犠牲さと善良さ、無償の愛性みたいなもののあらわれで、うーんこういうのだよなあと思った(伝わってる?)。そしてこれは「魔笛」をみたときにも思ったことである。オペラ、わりと女性蔑視とか家父長制とかの表象であり、オペラをひっそりと好きな人間として、それの継続に少なかれ加担していることに対するもやもやがある。そうした悪さをかき消す荘厳さと力強さ、豪華さがあり、それに圧倒されているのだけど、そういうのってどうしたらいいんでしょうね。今の価値基準で昔の物事を批判してはいけないみたいに言われるけれども、それをそれとして放っておいたら、その悪さはずっと続くことになりませんかね?そのあたりどうなんだろうと思う。

ぺリアスとメリザンドが恋に落ちていく過程もよくわからなくて、なんか気付いたら両片思いしていたんですよね…?どういうこと…?なんかすごく淡々としており、終始何を見せられているのか私は…?という気分であった。これに比べると、ワーグナーとか、よく知りませんけど、ドイツのオペラは(少なくとも私が今までみてきたものを考えるに)わかりやすい気がする。

は~ようわからんかった。

河野さんのお歌とお姿を拝聴拝見できたのでよいです。なんにでも出てるつまや氏も拝見できて、光栄でした。