東西線2

昨日の投稿が、呟きの連なりで笑ってしまった。動揺している。後ほどの私が読み返してわかるように書き直す。

 

東西線、いつもあなたが乗っている東西線からは、川が見えるでしょう。あなたは電車に乗っているとき、あまり何かをしたりせず(ゲームはする文化がないし、これといって本も読まないし、SNSにも縁が薄いでしょう)、車窓から外を眺めていることが多いから、その線に乗っているのに、川が見えるところまで行かないで降りるから、乗っているのに見れないという状況にあって、もやもやしていたんですね。違和感と言い換えていいのだろうか。山梨やら長野やらはたまた広島なんかにいって、視界に山があることに徐々に耐えられなくなって、帰ってきて高速道路を走っていてみえる、関東の平野の、それもネオンがギラギラの平野を見て安心するあれ、今はまだ山にいる圧迫感の中にいる。今までは、川のことを意識したことなんてなくて、時間が短くなってラッキーとすら思っていたけど、それよりも大きなもどかしさを感じた。距離や時間より、見れないということのほうが違和感が大きいようですよ、私は。びっくりだね。水曜日に川を見に行こうね。

 

残りの連なりは、全部素敵だと思っている人に対してのあれこれです。私にとってよいことは穏やかであることであって、興奮は必要ないんです(そういえばタイミングよく、最近國分功一郎先生の『暇と退屈の倫理学』を読んだけど、興奮を求めるというのは私は薄いなと思った)。だから、私がますます素敵だと思うようなことをしないで欲しい、ということです。それにしても、どうして素敵だと思うのだろうか。要観察、要考察。つい最近の恋愛経験により、距離感を詰めすぎると良い結果にならないということがわかったため、即座に「いやしかし今の距離感だから素敵に見えるのである」と思い直す。ここでため息。どう素敵かを挙げてみようということで、挙げていく。気さく、なんかよく話しかけてくれる、面倒見がよい、卑屈じゃない、淡々としてる、期待してない感じ、事実として物事を受け止めてそう(価値判断があまりなさそう)、かと言ってケラケラしてる、可愛い、コロコロしてる、説明と指摘が上手、明るい(そう明るいの!!!)。なんでこんなに素敵なんだろうと思っていたけど、単に私が好きというだけだったわ、という結論に至る。既にお相手がいらっしゃるような発言があって、一回ショックを受け、いやしかし惚れたくないから本音としてはむしろ好都合である、と思い直した。でも多分いないんじゃないか? それで、その日の夢に出てきてまじびびったのである。超好きじゃんね〜いやそれにしても素敵だったな、しかももろもろが解決された状態であった(察せよ)。朝起きて、はあとがっくりして(自分の中にある好意の存在を改めて認識させられて、あ〜あってなった)、いやでもやはり、というか絶対に、今の角度と距離から見たときに「大変素敵な人」に見えるんであって、その角度と距離を変えてはいけないと思うんですよね、と言い聞かせる。だって別に連絡とってどこか行きたいわけではなくない?何かがどうにかなってほしいわけでもなくない?どうにかしたいわけでもなくない?と思う。いやでも手と頬に触れてみたいと思うんですよ、好奇心故なんですけど、私にとっては繊細なガラスの彫刻のようなものであり、触れてみたい、その綺麗なものに、許されるなら、などと夢想している。そう夢想。それにしてもきもいな。それで、それらが許されるのは、関係がある程度のところに至った場合であり、でも私はその労力を取りたくないじゃん、穏やかでいさせてくれよ、という話でもある。それにしてもきもいな。以上が私視点の話。

相手視点の話で言えば、射程距離にない人が突然その範囲の中に入ってくるのはどうかと思う、という観点で話を進めたい。モノとして扱っていたものが、ちゃんと人間であることを認識したときの衝撃をあなたはちゃんと知っているでしょう、そしてそういうモノだったものから、人間として私のテリトリーを侵された場合、私はとても奢り昂るでしょう。自分は被害者だから、何をしてもいいと思うでしょう。そして何より、ものすごく、とてつもなく不快でしょう。それらを思い出せ、という話である。驚くし、著しく厄介だし、単純に迷惑、しかも対象というモノとして扱われていることが発覚したり、今までそういう目で見てたのねということがわかったりして、今までのあれやこれやがガラガラと崩れることになります(別に大したあれやこれやが築かれていたわけではないが)。総合して、やめましょう、深入りするな、自分を律せよ、という要求をせざるを得ない。繰り返しになるが、今の角度と距離だから素敵にみえるのであり、好意を持った理由がとある素敵な特徴に基づくのであれば、常にその人格を要求することになるわけだから、それはとても傲慢なことである、とも考えられる。私は私より圧倒的に能力の高い(が驕っていない)人が好きなわけですが、今の角度と距離以外の視点で見たとき、その圧倒は多かれ少なかれ崩れる。というかそもそも誰に対してだって、私のほうが得意な部分、私には息をするように出来るが他者にとってはそうではないという部分がある、これは可能性の話でありなーんて思ったけど、これは逃げですね、うん、撤回します。それはさておき、そのときに「幻滅した」とか言うんですよ、私は。相手からしたら、本当に迷惑でしかないことである。私の理想を体現した者を作り上げんがために相手を自分の土俵にひきずりこんで、その土俵にふさわしくないと判断したらほっぽるっていう構造であるわけです、期待とか好意っていうのは。やばくない??こんなことしてはいけなくない??いけないよね??いけないし、そんな素敵な人の前で、私が卑劣なことをしうるような状況に置きたくない。私は嫌になったら絶対にほっぽるから。諸々を考えるとつまり、落ち着くべきである。(これは屁理屈というかルサンチマンによる発言なんですけど)それにあの優しさは「与える側」と「与えられる側」で分けたときに、私がたまたま恩恵を受けやすい条件を保有していたという事実に基づくに過ぎないのかもしれず、人格に優しさが備わっているということではない可能性があるじゃないですか(可能性の話)。もしそんなことがあったら、確実に幻滅するでしょう。可能性はぬぐえないんですよ、ないことを証明することはできないんです(以上ルサンチマン)。それに今私がなにかをしたとして、あまり良くないほうにいったとして、年数的なところで言えば私というのはほんのわずかに過ぎず(本当に本当に極々わずか)、なにか悪いことがあったときにどうにかしてもらえたりなったりするのは私ではなく組織のほうである、ということも考えられる。要するに、私は不利にならざるを得ない状態だから、絶対になにもするべきではないのだ、という結論に至る。疲れたので筆を置く。ま〜嫌になって辞めたときに一回くらいお食事に誘ってみたらいいんじゃないですかね、それから考えればいいんじゃん、などとも思う。だって、嫌になったら絶対に辞めてやるんでしょう。もっと“楽”になれるやり方を確立していこうとしたっていいんじゃないですか、という課題もあるわけじゃないですか、怠惰故に取り掛かっていない課題がさ。続けたら続けたで観察期間が延びるわけだから、その新たな観察、考察結果に基づいてどうこうすればいいわけだし、とにかく今動くのは、突飛で危険、軽率、浅慮に過ぎないのである、という話。

 

買い物して帰る。紙パレットと、ティッシュケース。眠い。帰ったら味噌作りをして、洗濯物を畳んで、部屋の掃除をして、荷物を整理する。終わったら頂いた論文を読む、本の続きを読む。お風呂に入る。

 

紙パレット なかった

✔︎ティッシュケース

✔︎味噌作り

✔︎洗濯物

✔︎部屋の掃除

✔︎荷物整理

手紙書く

論文読む

お風呂に入る