労働とか追いつかれるとかラットレースとかの話

ここ最近ずっと考えてること。

だんだんと大丈夫になってきたのは、フラットに捉えられるようになったからだと思う。生きなきゃいけないという前提があり、それに対して私の性質(性質…?)は生に向いてなくて、だからつらかったのだ。でもそうじゃなくて、生きるのも死ぬのも環境やタイミングやなんやら色々な組み合わせで決まることで、私一人でどうにかすることではなくて、今は単に私の環境と肉体に生かされている。それらが私を生かさなくなれば私は死に至るし、自分を生かそうとする環境を自分で用意できなければ死に至るし、どっちが勝るかな、今はただ、環境と肉体が勝っているというだけだなあと思った。上手く言えない。私は色々とキャパが小さいから、その中でやっていって、その結果自分を生かしきれずに死に至るなら、もうそれでよい、そういうものである。キャパを越えてまで何かをし、結果生き延びようとは思わない。疲れちゃうから。だから、容量の悪さ、小ささでも生きられる範囲でしか私は生きない。ずいぶん楽になった。もう大丈夫とさえ思う。私の回れる範囲で回る。今は環境と肉体が私の回転を大いに助けてくれている。それらが変わって、私が私の回転を支えきれなくなったら、死という回転が追いついたとき、私は死に至る。それでいい。もう頑張らない。頑張りたくない。頑張ってまで生きない。

 

労働、今日は残業したのに心が全然死ななくて、こういうこともあるんだなと思った。自分の心の仕組みがわからない。多分、明日が休みだから。