鳥瞰をやめる 観察日記

2021年2月22日

鳥瞰の定義からしていこう。私がここで言う「鳥瞰」とは、彼女が「負の社会科見学である」と言い表したような、地に足をつけていない態度のことである。自分を現在地の地から一歩退け、その地に属したり存在しているにもかかわらず、あたかも特権的な一つ上位の存在として、観察者として自分を扱うことである。そのようにすることで、その地に深入りしすぎることを防いでいる。このおかげで、不愉快だがやらなければいけないことにのめりこまずに済む。また、自らの心が大きく揺れ動くことを防いでいる。

他者を他者として扱わないことについても関連して書けそうなので書く。他者を他者として扱うには、まずその他者の背景を知り、そのうえで存在を肯定するという行程をたどる。私の場合。しかし、これにはものすごく大きなエネルギーを使う上、正直興味のない人の背景はあまり興味がなく、しかし多少は理解しなければならないため、属性やら所属やらタイプやらで区別し、認識する。私はこれをよくするし、これができるようになるために多くのものを見ようとすらするが、このような認識は、他者を他者として扱っていないことなのではないだろうか。だとしたら不誠実な行為なのではないか。そうやって自分とは違う人間であると区別するから、彼/彼女が私と同等の人間であることがわかったとき、私はショックを受けるのだ。

この日記は、これからの一か月間でこれらをなくそうとしてみる行いを記すものである。

しかし、方法は?

そういえば今日、組織側の人と話した。普通の人であった。なんなら、気にかけてもらい、優しいという印象をすら抱いた。でも私がされていること、大切にされていない/していないと思うことは依然としてあって、だとしたらその優しさと大切にしていなさはどう両立するのだろうかと思った。私と同じ立場の方が、私が昨日話した人ではない組織側の人と少し揉めていて、それを聞いて思ったのは、その組織側の人は、その揉め事を起こして悪いと思わないのだろうかということだった。その揉め事は、なんというか、ひどいことだったから。良心がないのかなと疑ってしまうようなことだったから。

 

2021年2月23日

要するに、今までフェアに接していなかったものに対して、フェアに接してみようとする試みである。それが出来るのかどうか、フェアであると思う間もなく溶け込めるのか、出来たらどうなるのか、という話だ。いやだから、どうやってやるのよ?入り込んでみたところで、今無理になっているところで、もう結果は出ているのではないか?

 

今日は人と話すタイミングが少なくて、検証と言えるほどの何かがあったわけではなかった。ただ、散歩をしたけれども、私が散歩を楽しめるのは「観察」をしているからであり、だとすればこの鳥瞰をやめるというのは楽しみをなくすということなのではないか?

 

2021年2月24日

2個目の課題、他者を他者として扱うというのは、相手を生身の人間として見る、他者も私と同様に、生活を営んでおり好みがあり思考をする人間であることを認識して接するということだ。何かを決めたりするとき、主義主張を持つとき、意志には、その人には根拠があって、根拠がどういうものかを知っていて、その傾向とか好みも知っていて、それらを踏まえたうえで行為をしている。と思っていた。私がそうだから。でも案外そうではなくて、なんとなくふんわりした理由で選び、意志していることが多そうだと思わざるを得ないな〜ということが多くて、拍子抜けしちゃって、だんだん嫌になっていった。だから考えてれば絶対にできない行為をし得ちゃうんだと思った。だから私は、他者を他者として見るのを辞めたんだった。拍子抜けして、疲れるから。所詮そんなもんか、と他者を貶めるのが嫌だったから。嫌なことを見ないように、私が思わないように離れた。だから、私はそれ以降、他者を他者として扱うことをやめたんだった。だとしたら、もうそれは無理なんじゃなかろうか。

 

他者を他者として扱うっていうのは、親しくなること(ある程度信頼すること)なのではないかと思った。少し嫌なことがあったときに、「今日ね」と言える/聞いてもらえる/話してもらえる関係を築くこと。人として見ている、私として感じたことを共有できる、してもらえること。組織の一部としてではなく、私として接せること。石川さんと話して思った。でもだとしたら、やっぱり難しいんじゃないか。だって、組織における私は組織における私であって、私そのものではないからだ。もしくは、他者も人間である(この言い方やばいなあ)ことを前提に、特に何かを期待することなくフラットに接することができれば、私の観察を楽しむ気持ちとこれが両立するのではないか。

 

2021年2月25日

私だったと思う。

 

2021年2月26日

労働がつらすぎて吐いた。びっくり。

労働するためにご飯を食べる

朝悶々悶々悶々

日が昇ってて死にそう

人と会うと切り替わる、謎

他人のことをこれこのような人だろうと思うのは、観察の対象にしているからか

エシカル、私が分け与えたらいいんじゃないか、私の地位は運だったのだから

多く持ってるなら

回らなくなったら死に至る、それだけである

かけっこしてる

ラットレースではなかった

吐き気

 

2021年2月27日

ふと思ったが、他者の方の話で、鳥瞰を止めるということは、それが現実であると認識することなのではないか。例えば目の前に私に意地悪をする人がいるとしたら、『意地悪な人がいる世界もあるんだなあ』と、まるで私は意地悪な人がいない世界にいるかのように思う(いや実際そうなんだけど)。意地悪な人がいない私の世界が本当で、意地悪な人がいる世界を体験/観察しているかのような立場。でも実際は、意地悪な人がいようがいまいが世界は一つしかなくて、“本当”というものはない。だからカルチャーショックという言葉があるんだろう。当たり前だと思っていたことがそうではなかったこと、実際にこんなことあるんだ、グロいと思うこと。閑話休題。自分の世界を全てに当て嵌めていて、それが違った時に驚いて、世界を分断して理解すること。私はこうやって物事を理解している。だから鳥瞰しているし、他者を他者として扱わないことになる。そうすると、25日に友達と会った時は、同じ世界の住民同士だから他者として扱えたことになる…?なんて高飛車な…?

 

2021年3月1日

今日も鳥瞰をしなかった。段々と場に溶け込んできている気がする。その場の一員になるような感覚。実際はなれていないんだろうけど。それから、親しく思っている人が一緒だったから。その人といるときは私は私で、多分そのお方は誰に対してもフラットな接し方を自然にされるのだろう、だからだと思う。すごいことだ。