役に立つの話

 

大学と社会と役に立つと学問について考えたことを書いておこうと思ったんだった。

 

試験で書いたこと。社会は役に立つものばかりを優先して、役に立たないものを排除しようとする傾向がある。確かに世界は容量に限界があるし、材料にも限りがあるから、全部を大事にすることはできないかもしれない。けれども、一見役に立たないものも役に立つ。例えば文学は、消えかかっているけど(消えかかってはいない、雑に扱われがちで、雑に扱われているだけである)、他人の考えを推論したり、世界像を広げるのに役立つ。というかそもそも社会っていうのはいろんなもので構成されてるけど、それらは時代とか場所で入れ替わり立ち替わりするもので、その時の構成要因に合わせて一部の学問を制限してしまうと大事な学びを失いかねない。

けれども、別に社会に役立とうが役立たまいが学問は存在していていいと思うし、やりたいという気持ちがあればそれだけでやればいいものだと思った。そのようにして存在した学問を、その中で社会がいいなと思う学問を、社会の側が用いて勝手に利用して実用すればいい。その過程で学問と社会が協力してよりお互いを高めることがあるのはいいことだと思う。けれどもその実用性優先主義が拡大されて、実用性を全ての学問に当てはめて、そうやって社会と協力できないような、社会の役に立たないと思われる学問を排除しようとするのは違うんじゃないかと思います。学問は学問としてだけあっていいと思う。

私は社会の役に立つと思って哲学をやってるんじゃないし(私の生存の理由にはなってるのでそういう意味では私の生には役立っているかもしれない)、私が哲学を学ぶことで社会の役に立たなくていいと思っているのに(だから大学の、なんだっけ、「社会と福祉に貢献する人を育て、彼らを社会に送り出す」みたいな基本姿勢を白い目で見ている)、私が役立つ/役立たないの立場に立ってしまっていて残念だった。

現時点での一番良い回答は、学問とか思想っていうのは天才たちのおかげで存在して、それによって世界像が開かれるようになって(私の好きなツイッターの方は、これを「世界のドアノブ」と表現なさっていて素敵だった)、私たちはそれを利用したり学んだりすることで、自分や社会の世界像を書き換えることができる。これらは私や社会が勝手にやってるだけで、学問や思想の存在そのものに介入するのは傲慢だ、という辺りでしょうか。

 

もうちょっと考えたい。