「いや、あなたはどうしたいの?」

と会社(好きなほう)で言われて、えっと言葉に詰まった。わからないんである。立ち回り方が。私に求められている立ち回り方。必要なら残るし、必要なければ去るし、いてもいいならいさせてもらうけど、条件に見合わなきゃ去るよ、暇疲れは嫌いだし。でも、とにかくわからない。求められているものがわからない。状況が把握できない。社会的な私の社会的な選択は、状況が優先される。私は私の欲より、状況が良くなることを優先する。

 

鳥瞰をやめるやめるやめると言っていたけど、鳥瞰を含め、そういう少し距離を置いた社会との関わり方って、私にとっては自衛だったなあと思い出した(だから役割が欲しくて、盾が、名前が欲しくて、躍起になっていたこともあったっけね)。私の希望を言うなら、私は何もしたくないし、帰りたいし、ベッドで朽ち果てたいし、ていうかそもそも存在したくなかった。でもそういうことを言っていては生活も社会も他人との関わりも何も回らないから、世界に沿っている。沿うようにしている。欲しがっているだろう言葉をあげて、欲しがられている役割を汲み取り、それに適合するように調整する。わからないんだもの。それ以外にどうしたらいいか。私は朽ち果てたいんだってば。

だから、あなたはどうなのと言われて、びっくりしてしまった。質問の意図がわからなかった。形式的な問答だったのかなとも思うが、社会的な私に欲を聞かないでくれよ。合わせるから、役割をください。切実である。

 

こんなふうに思うことがあって、やっぱり鳥瞰をやめることはできないだろうなと思う。鳥瞰をやめるということは、私の世界/世界として分けるのではなく、世界の中にいる私といったように、現実世界での私が私になるからだ。のえちゃんが言っていたね。私達は私達の世界があって、そっちをとても大事にしていて、でもない人もいる。そういう場合は、労働に対する嫌悪感も少なめなんだろう。けれども、私はそういう捉え方はしないし、できないだろう。だからずっと鳥瞰をし続けるし、役割を求め続けるだろう。社会の中で、世界と共に生きているのであれば。