屈折した何かがあるんじゃないかという話

誰かが何かを言ったときに腹が立つとしたら、それが私にとって屈折した何かであることのあらわれであるかもしれないね、という話。教習所で同郷っぽい人を見かけて、多分そうなんだと思うけど、向こうも多分そうだと気付いていて(やたら目が合う)、しかし私は私の郷がめちゃくちゃ嫌いなので、何も知りませんよ〜と澄ました顔をし続けた。郷が嫌いだから、そこに関わるものは全部埋めて忘れてなかったことにして、郷自体をなかったことにしている(一人だけずっと付き合ってる友達がいるけど、彼女はもはや同郷とかではなく、彼女自身である)。嫌なことがあったとき、私はそれをどうにかしようとはせず、さっさと離れる。さっさと離れて、嫌なことは記憶から追いやって地中深くに埋めて、そんな嫌なことはなかったこととして扱う。思い出さない、反省もしない。同じ轍を踏まないようには気をつけるけど、それ以外は働きかけない。掘り返さない。そういうとこだよ、と元恋人には言われたが、私の中では筋が通ってるんでどうしようもないです、はい。だから、“マシ”なんだよなあ、私は。それでいいんだもん。

 

あまり見ない人種を見たということを書こうと思ったんだった。あまり見ない人種。「あまり見ない人種」とかって括ってることを奢ってるなあ、高尚(っぽい)な自分が結局好きなんである。

 

奥田民生になりたい〜』を観た。しんどかった。ずっと「みんせい」と読んでいた。しんどかったのは、主人公の卑屈さが見てとれたからか。自尊心の高さと卑屈さが混在している、自分を実際より大きく見せようとしている、その浅ましさ。気持ち悪かった。手に入らなかったものへの執着はそのもの自体への執着ではなく失った自分に耐えうることができないからか。自分の欲望に忠実ではあったが、その欲は、見栄のためであるように感じる。これは違うことについてだが、過去に手に入らなかったものをが手に入った時、そしてその過去に手に入らなかったものが高い価値があるものだったとき、手に入ったときにようやく手に入った、もしくは手に入って嬉しいが、過去の渇望が満たされるような感情とは異なっており、単に今の状態に満足しているだけだ、みたいなことを言われたことがあるが、まずそれに高い価値を見出すセンスがダサい、渇望しこともダサい、手に入れられなかったこともダサい。全部気に食わないのである。抽象的すぎて自分が何を感じているのかわからない。