一段落の最中

一段落のさなか~~~うれし~~~~ぴょんぴょんぴょん!!

今はいいんだけど(一段落の最中/一段落に向かう間際はよいのだが)、終わったあと、カウントダウンの最中がつらくて、今も終わった後で私が抱くだろうつらさを考えて、つらくなる。これが嫌で、レジャーが嫌である。それならずっと、間際でいたほうがよい。いつまでも本番が来なくていい。ずっとわくわくと構えている状態のほうがよい。来て、過ごして、終わって、つらくなるより。なぜつらいのか考える。いつまでもその状態が続かないから。私の好きでもない日常をまた送らなければならなくなるから。不愉快だがやらざるを得ないことである。もしくは、マンダトリーな日常。学校。労働。朝起きること。自分の好きに動けるというのはとても楽だ。何もしなくていいのは楽だ。何もしなくていい状態で、気ままにやりたいことだけを手に取りたい。そうやって生きていたい。それができなくて、なんとか自分の生命を繋いでいくために生きているなら、別に生きなくていい。そこまで生に対する欲はない、頑張ろうとも思わない、魅力もない、親はエゴイストである。もし好きに過ごせるとしたら、私は早起きをして、お散歩をして、お風呂に入って、本を読んで文章を書いて、掃除をして、おやつを食べ、夕飯を食べ、早く寝る。たまに友達と会って、温泉に行って、そうやって過ごす。普段はそれができない。寝ようと思ったら、労働と寝るで終わる。遊びたくて寝るを削ると、即座に体調が悪くなる。どうやってみんなバランスをとっているのか。無理じゃないか。どうやって生命を持続させているのか。無理だろ。私は無理だ。睡眠不足を一つとっても、単なる寝不足の域には収まらないのだ。鬱っぽくなり、歩くのが遅くなり、頭が痛くなり、動悸が激しくなり、目がちかちかして、死にたくなる。けど、労働と睡眠だけをしていても死にたくなるのだ。それに耐えられなくなって、労働ができなくなって、しなくなって、餓死するんだろう、私は。でもそのほうがいい。そうしたい。あわよくば、餓死ではなく、一思いに死にたいが。最近ずっと同じこと言ってるな。

 

家。家、家というか部屋を見る機会に今多く恵まれていて、つまらないなあと思った話。画一的というか、単調でつまらないのだ。そう、つまらない。ダサい。利便性を、いやしかし誰の利便性なんだろう、でもとにかく利便性を追求して今の形に至ったのだろうなと思う。でもそれではつまらなくないですか?そんなところ住みたい?私は嫌。嫌なことはしないことにした。いろいろ考えた結果総合して、現状維持という答えが出るならそれでいい。私が最も幸せになれる選択をしていくべきだ。部屋たちは、日当たりが悪い。つまらない。つまらない。単調。四角い。目に映るマンションに対して、ああつまらないなと思うようになってしまった。解像度が変わったのである。解像度が変わるこの瞬間は好き。こういうのを積み重ねていくのが、人生というゲームである。だから、解像度が変わるための元の解像度をきちんと手に入れて、認識しておかないといけないし、新しい解像度を受け入れる準備もしておかないといけない。それは楽しい。

 

パニックになったときに本性がでるよね~、という話で、ああ私この前やってしまったな……と、うなだれた。あ~あ。あ~あ。もし恩返しができる機会があれば、させてもらおう。それでいいことにしよう。私がこういったことを気にするのは、その人の中での私をできる限り私が作り上げたいからで、義理堅いとか優しいとかではないんですよね、手土産しかり。怖いからそうしてるというだけで。この話おわり。

 

風景と広告。外をぼーっと見てるのが好きで、電車なりドライブなりで、でもあれは、私は看板を読んだり、ビルの名前を読んだり、ごちゃごちゃしているものを辞書、なんだろう、名前?と紐づけて、ああこれがあれね、とするのが好きなんだなということに気が付いた。今回の一段落休息の行き先は福島で、移動が夜だったのだが、福島、栃木辺りから風景が途端に一面の原っぱ、みたいになって、たぶん昼間だったら、不快とまではいかないが、小さな違和感を心の隅っこに感じていたんだろうな、と思った。夜で、風景がよく見えなかったから、抱かなかったんだなと思った。だから私は、ざくばらんに”風景”が好きなのではなく、ごちゃごちゃして、紐づけがたくさんある”風景”が好きなんだ。その風景をみて、紐づけていく行為が好きなんだなあ。なのを。そういえば元恋人2名は、どちらもごちゃごちゃが苦手で、嫌だ疲れると言っていたが、情報量の多さに耐えられなかったのだろう。でもそれを言うと、私もそこまで情報量の多さが得意なわけではないのだ。何が違うんだろう。

 

なんだこの中身のない日記は。

 

嫌なことはしない。最初の大学に入る前に、やりたくないことは絶対にやらないと決意した。なぜそうしたか、きっかけは覚えてないが、小さな何かが積もり積もって、いやなことはやらないと決意したいと感じていたのだろう。当時、友達にそれを言ったら、でも現実的に無理じゃない?と言われた。確かにそれはそうで、ただその中で最も良い選択を取り続けようと思ったのだ。その中でやりたくないけどやらなきゃいけないことが浮上すれば、それは仕方がないこととして諦められると思った。結局、やりたくないと思いながら、いやだいやだと思いながら大学に行き続け、どうにもならなくなって、いろいろ壊れてしまったが。今となってはの話である。私は、私の気分をものすごく大事にする。気分がのらなければやりたくないし、やだなと思ったら絶対にやらないようにする。私の感じ方を大事にする。その感じ方が、好き、好ましい、楽しいといったような肯定的な感じ方だけではなく、やりたくない、嫌い、疲れた、無理、好ましくない、ダサいといったような否定的な感じ方の場合も同様である。むしろ後者のときのほうが、より大事にしようと躍起になっている気がする。沈んでいるときもそうで、いつまでも沈んでいたい。自然に浮上するのを待っていたい。無理矢理に起こされたくない。それで壊れてしまったのもそうだし、それをすると、嫌な思いをするということを知っているからだ。私の気持ちを大事にする。やりたくなければやらない。だから、これが出来るだけ実現されるように、生きていかないといけない。そうすると、なるべく、一人で生きたほうがいい。一人で生きよう。一人でどうにかできるようにしよう。どうしたらいいんだろう。

 

それにしても、合格をもらってから、すっかり生きること自体への執着が薄れて、生命って別に意味ないし動的平衡だし(by福岡先生、都合のいいように引用)、死ぬときは死ぬんだからまあもういいや、と感じていることが長くなった。だから、結論としては、意味はないです、これは解決もしません、そういうもんです、ということを証明していく、根拠を集めていく作業である。ええ…これでいいの…という感じなんだけど…わからん…これだけはがんばろう…。

 

これからとんかつ。