『アウステルリッツ』

セルゲイ・ロズニツァ監督『アウステルリッツ』を観た。渋谷のイメージフォーラム。小さい映画館。平日の昼間にも関わらず(私もだが)中々の盛況ぶりである。毎日新聞で、監督のインタビューを読んだのがきっかけだった。新聞はバイト先のもの。もらえばよかった。

 

最近考えていること。1個は自分が絶対に正しいという立場という意味での主観や自分の立場について、もう1個は自分と世界を乖離させて社会を客観視することついて。

 

1個目のことについて。私がそうだと思っていることは私にとっては間違いなくそうで、他の人にとってもそうだと思うけれど、それらが食い違ったり違うものだったりしたときに、どちらかがどちらかを正そうとする。その正そうとする行為はなんなのか、という憤りである。自分を正しいとし、私を不正とする、その自分の優位さはなんなのか、という憤りである。そして私もそういう、自分を正しいとし、他人より優位なところに立っているから、自己矛盾していて、嫌悪する。最終的に「人間って卑怯でやだな」などと思うが、そうやって、自分の欠点を私個人ではなく「人間」っていう種、自分より大きなものに還元することで、自分の行為の責任を逃れようとしている卑怯さにも嫌気がさす。私の行為は私のものだろう。

 

2個目のことについて。

1個目の後ろで、「人間」という大きなものに還元するって書いたけど、そこと少しリンクするかも。私がいるのは現実で現実と関わって生きているのに、現実を抽象化して捉えることが好きで、そうやってた期間が長く、また実社会と距離を置いた生活をし続けていたから、乖離が大きい。そうすると、自分は現実に生きているのに、その現実を自分のいるところじゃないものとして扱って、なんだか神の視点みたいなところから俯瞰しているような傲慢な立場を取るようになるけど、それってどうなんでしょうか、という話。抽象的に捉えるのはいいけど、私が生きているのは現実であって、また現実しかなくて、そこには個々の人格を持った個人がいるんですよ、という話。お葬式、ではないな、なんだっけ、叔母の四十九日で、コロナの話になって、そこで私は「でも人間はいずれ死ぬんだから」というような発言をし、それはまごうことなき人間の「定義」だが、現実で、よりによって今私がいる「叔母の四十九日」という現実で発言すべきものでは決してなかったなという反省。概念で捉えてるからこういうことになる。わからない。足が冷たくて痛い。

 

インタビュー記事が映画館に貼ってあって、それを読んだけど、「コロナ禍の中で『差別』をよしとするトランプ氏の出現や、その氏を歓迎する民衆の出現から、『差別』意識は凄惨な20世紀を経験した21世紀現在もあり続けているし、簡単にはなくならないことがわかった。悲惨なことが行われた場で、なぜ自撮りをしたり、笑顔でいたりするのか。私たちは何を感じるのか」という内容で、監督が問題にしたことよりも、私は一人の人格を持った「個人」が、いつから「民衆」という大きな魚の群れみたいな一個体として扱われるものになるのかに関心を抱いた。同じ意見を持って同じような行動をしていると大きく「民衆」という扱いになるのか。いつからそうなるのか。私は大きくくくった「老人」が大嫌いだけど、個人格としての彼らをそこまで嫌ってるかといえばそんなことはないし、というかそこまで興味がない。概念としての「老人」を嫌っていて、その概念、定義かな、定義に当てはまるような「老人」がいたときに、その定義への嫌いな気持ちが大きくなる、ということなのだろうか。知らん。